アナログる
少し前にパソコンが壊れてから、映画もyoutubeも見れなくなりました。(正確には、youtubeは携帯で観れますけど、容量食うのであまり観てません。)
怪我の功名というのでしょうか、そのおかげで、絵画に向かう時間が増えました。そして、そのせいか、写真をまったく撮らなくなってしまった。つまらないのである。デジカメは簡単すぎる。フィルムの方は手こずりそうだからやってみたいのだが、そっちまで意識周りそうにない。というか、絵と写真の両立は、お金がかかりすぎる!
しかし、絵を描き始めてから、自分との関係性が良くなった気がする。なんというのか、「俺にはこれだよな。これが俺だよな。」という感じ… 例えるなら、ホウレン草といえば、ホウレン草のお浸しだろ的な。分かりにくいか?
自分にはこれがある!というのは、大事な気がしますね。だって、アイデンティティーですもの。
清原は薬物に溺れても、野球というアイデンティティーを支えるものがあるから立ち直れそうだが、田代まさしなんかはそういうのがないだろうからキツいはずである。ラッツ&スターには見放され、志村さんはもういないわけだし、タレント活動はできないから袋小路である。
やはり、自分を支える何かは大事です。先立つものはそれな気がしますな。
洗脳を解くには
以前の投稿の続きになりますが、ホリエモンがウシジマくんとお金の本の中で、確か、次のような趣旨のことを言ってました。
「洗脳を解くには、洗脳しかない」
言い得て妙な言葉であるが、「なるほどな」と読んだ当時の私は思いました。
変わって、進藤龍也牧師の話をしますが、彼をどこで知ったのかは忘れてしまいましたが、たぶん、テレビだったと思います。
進藤牧師は元ヤクザの牧師で、現役の頃に薬物の売買をシノギにしていたのですが、売人の自分も薬物に溺れてしまいました。結局、警察に捕まってしまうのですが、牢獄で聖書の一節読んで、更正を近い、ヤクザ稼業から足を洗って、やがて牧師になるために努力します。そして、晴れて牧師になるのですが、本で言っていたかどうかは忘れましたが、インタビューや対談で、次のような趣旨のことを言ってました。
「僕は薬物依存から、キリスト依存になりました」
これは先程のホリエモンの話と繋がります。
結局、依存は別の依存に向かうしかなく、別の依存に移行して、前の依存を打ち消すしかないのだと。
依存体質とやらがあるのだとしたら、依存体質そのものを変えるのではなく、依存する先を変えることがベターな対処の仕方なのだと。
前の投稿の話で考えるなら、リビドーの対象を変えることが唯一の対抗策だということです。
例えば、タバコをやめて太るというのは、ニコチン依存から過食へと依存先が変わったとみるべきなのかもしれません。
また、薬物を断ってからアルコール依存になる人は、薬物からアルコールに依存先を変えたのでしょう。
問題は、依存先です。
かくいう私も依存体質だと思っているので、ギャンブルやタバコには手をつけませんでした。これは真面目だからということでは決してなく、歯止めが利かなくなるからです。
こういう依存型の人間は0か100で考えるしかない気がします。要は、やるかやらないかの二択です。50というのは、たぶん無理でしょう。自制が効く、自我がしっかりしている人でないとキツいはずです。
何事も、脳が覚えてしまったら、やめるのがむずかしくなります。お酒も毎日飲んだら、脳が覚えちゃいます。毎日タバコを吸う人は、脳がタバコを完全に覚えてしまっているわけです。
人間は何かしらの対象、リビドーを向ける対象が必要ですが、対象の選択を誤ったり、対象の選択が限定的に、かつ、局所的になるとおかしなことになるわけです。それは、前の投稿で書いた通りです。
これは欲望の問題ですから、意識的に自覚するのはなかなかむずかしいかもしれませんが、こういうリビドーと対象との関係のメカニズムが客観的に分かれば、少しは結果が違ってくるのかなと思います。
少なくとも、何かに溺れたり、狂信的になったり、一つのものに絶対的かつ盲目的に従ったりする人間は少しは減るのかなーと…。
フロイトから学ぶ人間理解
―我々人間のリビドーは、その対象に事欠けば欠くだけますます強烈に残されているものにしがみつき…(以下省略)―S.フロイト「無常ということ」
リビドーの説明
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%BC-149263
このフロイトの考えには、共感しかない。本当にそうである。
例え話になるが、読書が嫌いな人間でも、拘置所の独房に閉じ込められれば、たぶん読書をするはずである。向かう対象がそれしかないからである。
人付き合いの苦手な人間は、リビドーの対象が芸術に向かうかもしれない。向かう対象がそれしかないからである。
世俗が嫌いな人間は、リビドーの対象が宗教に向かうかもしれない。向かう対象がそれしかないからである。
赤ちゃんは、リビドーの対象が母親に向かうために、母親にしがみつき、お母さんと離されたら泣き叫ぶのかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的だからである。
認知症の老人は、リビドーの対象が残された周りの人間に向かうために、是が非でも周りの人間にしがみつくのかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的になるからである。
鳩に餌をやるおかしな人間は、リビドーの対象が鳩にしか向かわないかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的かつ倒錯的だからである。
ナルシストは、リビドーの対象が他者ではなく、自己に向かう人間である。
多目的トイレ芸人のあの彼も、大麻で捕まったヨーゼフ・ボイス被れの社会彫刻家兼役者のあの彼も、絵本作家に転身した芸人のあの彼も、リビドーの対象が自己に向かいすぎるぐらい向かっていることは、我々の目にも明らかだ。(だいぶ、大袈裟に言いましたが)
リビドーの対象の限定化かつ局所化。
私なんかは、人付き合いが苦手なために、芸術だの映画だの精神分析学などという対象が向かい、しがみつくのかもしれない。(いや、実際そうであるわけだが…)
ただ、このリビドーの対象とやらが、極端に限定されるのは危険な気がする…いや、危険だろう。
依存症というのはある意味そういうことではないかと、私なんかは思うのである。
リビドーの対象が完全にアルコールになる人間がアル中になり、リビドーの対象が完全にギャンブルになる人間がギャンブル中毒になるのではないか?
こういうリビドーが限定化かつ局所的になる人間というのは、何かにハマったり、洗脳されてしまう気がする。
その対象がアルコールなのかギャンブルなのかホストの彼なのか宗教なのか芸術なのかの違いはあるが、根っこのリビドーの対象が限定的かつ局所的になるということだけは一緒である。
ただ、違いは有害か無害かになるわけだが、芸術も宗教も、家族の誰かがハマりしすぎると、本人は救われるのかもしれないが、家族や周りの人間には有害になるかもしれないのだから、無害とは言えないのである。
例えば、ゴーギャンは、株の仕事を廃業して芸術に向かったから、家庭は困窮したし、マルクスは著述業に向かいすぎて、生活が困窮し、子供が何人も死んだ。ゴーギャンは世界的な芸術家だし、マルクスは世界的な思想家であるわけだが、周りを犠牲にしまくったという不幸な事実が、彼らの偉大な仕事の背後に隠れているのである。
なんだか、長くなりそうだからこの辺にしますが、この話の続きは一応あるで、また書くかもしれない。
その続きの話を忘れそうなので、ここにキーワードを書きますが、ホリエモンと進藤龍也牧師が言っていた話がヒントになりそうです。
映画二大巨頭
この1年は映画を観てませんが、その前まで約7年間ほど映画を観ました。その中で、私が敬愛する監督が二人できました。
溝口健二はもちろん日本人ですが、アキ・カウリスマキはフィンランドの監督です。
二人に共通するのは、下層階級といいますか、社会的弱者が主人公の場合がほとんどです。溝口監督の場合は、上流階級が主人公の映画のものはことごとく失敗しています(笑)
カウリスマキ監督の良いところは、台詞が少なく、説明的でないところですね。日本人で字幕を追う身の私としては、すごく観やすいです。変にナレーションとか入れてる映画とは大違いです。
また、監督の作品は、使う役者を固めているので、同じ役者でも作品によって役柄が違うので、観ていて面白いです。できれば、日本映画もそのスタイルでやってほしいです。そうした方が誰の作品だか一発で分かります。
溝口健二の映画は、著作権が切れたからなのか、某動画サイトにバンバン落ちてます(笑)
彼の映画は、ダメ男ばかりしか出てこないので、私としては大いに感情移入ができます(笑)
また、虐げられた女性、スレまくった女性と、色んな女性も出てきます。
そんな溝口健二監督の中で好きな作品は、浪華悲歌、残菊物語です。(共に戦前の映画なので、ガサガサしたプリントの状態に、今の映画に見慣れてる方は違和感を感じまくるかもしれないが)
残菊物語
https://youtu.be/Ggf7piD_Vbc
浪華悲歌
https://youtu.be/bdIpLamYzQ8
とくに、残菊物語は衝撃でした。たぶん、日本映画史上、最高傑作ではないか?と言っても過言ではない作品です。それぐらいの評価はされています。花柳章太郎演じる菊之助は、良い人なんだけど不器用なところが自分と重なりますし、森赫子演じるお徳は、もはや、神です(笑)まさに、グレートマザーという感じです。
アキの作品は大体好きですが、パラダイスの夕暮れ、ラヴィ・ド・ボエームがとくに好きですかね。(真夜中の虹も、コントラクトキラーも、街のあかりも好きですが)
私はパラダイスの夕暮れから入ったので、アキの作品なら、パラダイスの夕暮れを推しちゃいます。マッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンというアキ監督作品の両エースが主役やってるので。
溝口健二の場合なら、初めて観る人には、雨月物語を推しますね。あと推すなら、近松物語とかになるのかも。間違っても、山椒太夫や西鶴一代女のような激しい作品からは推さない(笑)あの二つ見て、こいつはヤバい!となるのだが…。
これは大袈裟に聞こえるかもしれませんが、溝口健二の映画を見て、私は初めて芸術というものに触れたような気がしました。この男は、魂磨り減らして映画を撮っているなと。これが表現というものなのだと。
この二人は、数ある映画監督の中でも私にとっては特別な二人ですかね。
もちろん、他にも好きな監督はいますが…コーエン兄弟しかり、キム・ギドクしかり。もう、キム・ギドクは亡くなってしまいましたが…。
マジカルなもの
何度か経験があるのですが、良い映画を見ると、心が無になるという現象が起こる。雑念が消えるというか、沈黙する。少なくとも、溝口健二やキム・ギドクの映画ではそうなった。あと、園子温の「愛のむきだし」とかも。
こういう現象って、映画以外にも体験できるんじゃないかと思う。例えば、絵画を見るとか…でも、絵画でそういう経験は今までないのだが、丸の内にあった複製のゲルニカ見て、胸騒ぎはしました。マジカルなものは感じましたね。
マジカルなもの。
私はこういうことにだけ興味があるのかもしれない。もしかすると、ヨガやら気功やら禅なんかでも、人の心を無にしたり、マジカルなものを感じるのかもしれないね。
あと、マッサージなんかも、ちょっと肩を解きほぐしてもらうだけで、軽くなったりするのだから、マジカルなものというか、まあ、施術と言うから、"術"なんだから、すなわち、マジカルなものなんだろうね。
なんだか、スピリチュアルみたいな話になっちゃったが、芸術にせよ、呪術にせよ、施術にせよ、忍術にせよ、いわゆる、「術」というマジカルな要素に何か惹かれるものがあるし、そこに何かがある感じがするんだよね。
ただ、こういうものは、現代ではないがしろにされてる感覚なのかもしれない。
なんだか、宗教じみてしまったが、晩年のトルストイの小説に惹かれるのだから、元々、私にはそういう要素が内在しているのかもしれないな。
カードを、手札を増やしていく
文芸批評家の小林秀雄氏が、「批評とは褒める技術であり、褒めることは創造に繋がる」的なことを言っていたが、これは本当なのだろうな。
これは人を育てる上で欠かせないことだ。私は文芸批評家ではないから、文芸批評はできませんけど、人の良い部分を見つけて引き上げることは努力次第で可能なのである。
そのためにも、カードである。カードを増やす。要するに、こちらの手札、守備範囲を増やすのである。
小林秀雄は、文芸批評と一口に言っても、ドストエフスキーや本居宣長、マルクスやゴッホ、モーツァルトなど、多岐に渡るジャンルの批評を展開したのだから、守備範囲は相当広かったと思う。
私は小林秀雄には到底なれませんが、絵画やら映画やら写真やらを見て、一応は守備範囲を広げているつもりではあります。
映画に関しては最近観てないので分かりませんが、写真に関しては、荒木経惟さんの「食卓」という昔の写真集がぶっちぎりで良かった。欲しいくらいだが、昔の写真集だから書店では売ってないだろう。
それはともかく、手札を増やすことは大事であり、大人になるということは手札を増やすことでないかとすら思うわけである。そういうおじさんやらおばさんが、親族に一人いるかいないかで大分違う気がするわけだが…とくに田舎ほどいるべきである。私の周りにはそういう人がいなかったからこそ、そうなろうと努力しているのだが…。
たぶん、手札が少ない大人ほど、柔軟性というものがなく、猪突猛進のワンパターン、精神論や根性論という古びた観念とやらを持ち出す懐古趣味の虜である。常識の奴隷で、世間の味方であるはずで、なんら創造性もなく、クソ真面目一辺倒、優髄の聞かない頑固で、面白さの欠片もないただのつまらない大人である。これはただの偏見である。
また、小さい子と習い事行く行かないで喧嘩になっている大人も、手札がないのでは?と思ってしまう。「どうして行きたくないのか?何か理由があるのか?」と聞き手に周り、子供の想いを聞いてあげなければ、うまく汲み取らなければ、向こうも大人を信用しなくなるのでは?そして、嫌なことをやらせようとする大人をあなたは信用できますか?と、私なら言いたくなるだろう。
まあ、ともかく、財布の中のカードは増えても仕方ないのだが、こういう内面のカードといいますか、手札は一向に増えて差し支えないと思います。
いや、ぜひ、増やすべきである。これは財産なのだから。しかも、相続税がかからない!から、人にガンガン相続するべきである。
その人間の技術も知識も、人に継承してこそ生き長らえるわけなのだから。
自己実現と社会実現
最近、絵を描いていますが、これは自己実現止まりでいいなとつくづく思う。要するに、社会的評価や対価などはどうでもよく、こちらが楽しむためだけにやる。これが自己実現である。
自己実現は自由さがある一方、社会実現は、社会的評価を得るために、戦略的にならねばならず、"個人の私情"は挟まず、絵を商品として売るための努力を常にしなければならないので何かと不自由である。
そんな商品をこしらえる絵描きの作品なんかよりも、"個人の私情"のみで描ききるような魂の芸術家の作品の方が私には必要なのである。
その筆頭は、ゴッホであり、ムンクであるが、彼らは自己実現の手段として芸術をやり、(ムンクはどうだか知らないが)ゴッホに関しては死後、自己実現が社会的に評価され、社会実現へと発展したのである。要するに、世界のゴッホになったのである。これこそ、ドラマだ。
こういう、自分に嘘をつかず、純粋に芸術と格闘した人間の絵は、不思議と響くのである。そして、私もどうせならこのように生きたいなと強く思う。売れない私小説的な絵なんか描いたところで、誰も振り向きはしないだろうが、自分に嘘をつき、嘘の絵を描いて評価されるくらいなら、孤立してでも嘘偽りのない"本当の絵"を描きたいと思う。
人前はともかくとして、芸術の前ぐらい、素直になったらどうなんだ?と言いたい。芸術の前では、素をさらけ出すべきではないか?それこそ表現なのではないか?と、ド素人の私は強く思うのでありました。