子供と反動形成

子供がいて、その子供に兄弟や姉妹が出来たとして、上の子が下の子に愛情を注ぐ場合、上の子は愛情がある子なんだなーと私は単純に思っていたのだが、どうやら、精神分析学的にはニュアンスが違うらしい。

反動形成という言葉がある。
これは本心と行動が逆に出る現象のことである。

例えば、女の人にあることだが、嫌いな人に敬語使ったり、やたらと丁寧になるオバチャンがいるが、これがまさに反動形成である。感情と行為が逆に出るのだ。

で、子供の方に話を戻すと、上の子が下の子に愛情を注ぐのは、愛情があるからというよりかは、嫉妬の裏返しとして愛情らしい。お母さんに受容されるためには、下の子に嫉妬してしまうとまずいので、嫉妬とは逆の、愛情という感情を注ぐ方向に舵を切る。すると、お母さんは僕や私を受け入れてくれる。子は、お母さんに受容されるためには、自分の想いを加工する。その愛情が深ければ深いほど、お母さんに受容されたい気持ちはかなり強いだろう。ウガった見方かもしれんが。

これは、子供の生存戦略と言っても良いかもしれない。お母さんこそが世界のすべてみたいな子供にとっては、お母さんに受け入れられることこそが第一であるから、それだけ必死なのである。

こういう考えが知識としてあるかないかで、子供の見方も随分変わってくるのではないかと思う。少なくとも、より俯瞰的に、より冷静に見れるようになるだろう。

ヤマンバギャルはどこか土着的

時期的にいうと、90年代後半でしょうか?ヤマンバギャルという女性たちがいましたね。あの子達は今考えても稀有な存在だったと思います。彼女たちのような民族的なヘアメイクといいましょうか、ファッションは、携帯電話やMDプレーヤーなどのテクノロジーの進化といった世の情勢に対して、対置されたカタチで出現したと思います。利便性や機能主義的に傾く世の中に反し、厚底ブーツや、やたらと尖った爪、やたらとつける携帯ストラップといった装飾的な装いは、何か人間らしさによる抵抗のようなものを感じました。

私には、そんな彼女たちが大変土着的に映り、渋谷センター街や原宿の竹下通りといった最先端な場所で、あの装いをして出現したというのは、もはや、時代に対する反作用でも何物でもなく、まるで、テクノロジーの進歩と調和に否を突きつけた太陽の塔のような存在にも見えました。(パラパラなんかも、どこか呪術的ですしね。)

もう彼女たちはだいぶ少数派になってしまい、今は韓流メイクやファッションが流行ってるのかどうかは私にはよく分かりませんが、彼女たちの時代に抵抗する精神というのは、どこか別のかたちで継承されていれば良いな、なんて思います。

みんなさん、今頃、立派な主婦やお母さんになってるのでしょうね、きっと。

反抗期と精神形成

岸田秀先生の三島由紀夫論を読んで、我ながら考えてしまった。

三島由紀夫には反抗期がなかったらしい。そして、反抗期がないのは、精神障害になる1つの条件だそうである。彼のあの最後のクーデターというのは、精神障害における発狂そのものらしいです。(そういえば、私が追いかけてる作家も、反抗期がなく、躁鬱病になってるから、これは本当なんだろうな。)

そんな私も反抗期がありませんでした。どうやら、自我の形成においては、反抗期が必要らしいとのことです。これで、私の自我の弱いことの辻褄が合いました。

思うに、反抗期がないと、精神の形成に欠落が生じる気がします。ゆえに、健全な精神というのは、もう手に入りません。そして、残された手は精神以外のもので補うしかなく、その1つは知性であると思います。知的操作。まさに、三島由紀夫がそのような人だった気がします。(その結果、彼は自殺してしまいましたが…。)

でも、知的操作、知性で穴埋めしていったところで、誰からも好かれない気がしますね。そして、そういう人間はどこか人工的で温もりもなく、乾いた人間になるはずです。

あと、別の方法として、欠落した精神をカモフラージュするべく、死ぬまで演技し通すという方法がありますが…。

それもいつか破綻しそうな気がしますが…。

失礼な話

失礼な話ですが、欲深い女性は長生きだと思う。(誤解がないように言いますが、長生きしている女性すべてが欲深いのではない。それはありえない。ただ、欲深い女性という人種は必然と長生きになりがちだということです。)

逆に、欲深い男というのは、長生きできないような気がします。たぶん、欲深さに体の方が持たないのでしょう。

なぜ、こんなことを言うかというと、私の自称祖母が欲深い女性だからです。

たぶんですが、欲深さが長生きに繋がるのだと思います。端から見ていて思うのが、彼女は情念だけで生きている感じがするのです。フロイトでいうところのエスですか。彼女はそれが人一倍強いのです。そして、自我が弱いからエスをうまくコントロールできない。だから、自制が効かない。酒に溺れちゃう人なんかもそうですね。

私見ですが、煩悩を捨てない限りは、欲深いお婆さんはたぶん成仏できないでしょう。欲深い男は、先程言ったように、煩悩を捨てる前に体の方が滅び、欲深い女性の方は、煩悩を捨てなければ捨てないほど、嫌でも生き延びてしまうのかもしれない。("女は灰になるまで"という言葉は、言い得て妙だと思います。)

もしかすると、長く生きるかそうでないかは、健康よりも欲望の強弱に左右されるかもしれない。

強い人とは?

私が思うに、自己分析できてる人、自分で自分のことを分かっている人はそれだけで強い。

これは逆説的かもしれないが、自分で自分のことを分かっている人は、他人のことも分かる気がします。(自分に似合う格好が分かってる人ほど、他人もうまくスタイリングできてしまうみたいに。)

逆に、他人を分かっているという人ほど、自分のことを分かってなかったりする。(子供のことを分かっているという親ほど…なんでもないです。)

自分で自分が分からない人、掴めてない人ほど、人生おかしなことになる気がしてならないんだよな…。

正しく自分を見つめるというのは、強さの他にありますまい。

孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」じゃないけれど、己を知らないと、人生もうまく立ち回れないのではないでしょうか?

そんな気がしますね。

ただ、そんなこと言っている私こそ、自分で自分を分かってない気がしますが…

…うん?待てよ。

これはもしかすると、「自分のことを分かってない自分」を認識はできているのだから、私にもまだ救いがあるのかな?(笑)

ソクラテス無知の知みたいに…。

私の父親論

父親ではない私が言うのはお門違いだが、あえて言いたい。

父親というのは、母親とは違い、母子一体感という身体的繋がりを、ヘソの緒を通した肉体的繋がりを経由していないので、それだけ愛着の面においては不利である。

それに、父親は仕事のせいで、子供との時間は切断されるだろうから、この点においても断然母親が有利な状況となる。(家族のために働くことで子供との時間は切断され、そのせいで子供に背かれるのかと思うと胸が痛むな。)

となると、父親が子供と絡む時間は、(職業にもよるだろうが)平日の朝、夕方から夜にかけて、休日の2日間と時間がない。

父親はこの限られた時間に勝負をかけるしかなく、朝はギリギリまで寝て、夕時は晩酌してyoutube、休日は馬券握りしめながら競馬中継見てる場合ではないのである。(気持ちは痛いほど分かりますよ。私は競馬やりませんが。)

では、母親のように子供と心身一体感を経由できなかった父親としては、限られた時間の中でどのように振る舞えば良いか?

結論、「同じ行為を通して、擬似的な一体感」を作り上げるしかない。

どういうことか?

要するに、例えば、「釣り」や「工作」や「スポーツ」などの行為を一緒に行い、「行為を通した父子一体感」を意図的に演出するしかないのです。

これしかない。

ただ、子供が成長するにつれて、習い事を始めるとなると、この時間は必然的に縮まってきます。

例えば、土日にサッカー教室などに通うものならば、もはや、壊滅的です。子供はサッカー教室を友達とエンジョイするだろうが、お父ちゃんとの時間は完全に切断されるのである。お父ちゃんとの時間はさようならバイバイ。もはや、子供はお父ちゃんよりもサッカーなのである。お父ちゃんに残された道は、カメラマンとしてサッカーの映像を納める記録係でしかない。

言い過ぎてしまった。

なるべく、父親というのは、先程言った「行為を通した父子一体感」を作り上げないと、残酷ですが、子供からすると愛着が湧かなくなります。

生活費を稼ぐのも大事ですが、それだけで子供は父親に愛着が湧かないものです。(戦後すぐならまだしも。)
また、自営業のような、父親の働く姿を見せられる環境であればまた別ですが、会社勤めですと、働いている様子を子供に見せられませんから、父親の努力する姿勢というのを子供は感じ取れないものです。(こればかりは仕様がない気がしますが。)

ただ、時間のない中で、子供との時間をより多く共有できるのならば、たとえこの先に、子供の反抗期という、一方的な、関係性の切断が、一時的に起ころうとも、途絶えた関係性は、時間を通して必ず修復する方向に向かうと思います。修復された関係性は今以上に、より強固に、深いものになることでしょう。その時に「親しみ」というものが生まれるのではないでしょうか?そのためにも、(子が小さな時においての)愛着です。娘・息子が子供の時に、父親が愛着というものさえ押さえていれば、良い関係性は実現できるはずです。

私の場合、父子一体感という経験を通せませんでしたから、なおさら言いたい。父子一体感を成功させていた友達親子を子供の時に第三者目線で見れたことと、「父ありき」と「グラン・トリノ」、ジョン・フォードの映画などを通して、父性のあり方、父親の役割を見れたことが私をこの考えに行き着かせました。

父子というのは、とくに、父と息子の関係というのは最も難しいかもしれませんが、お父さんの立ち回り方次第で良い方向に転ぶはずです。

せっかく親子になったからには、良い関係性を築いてほしいものです。実現できれば、これ以上の成功はないのですから。

画集でも作ろうか?

絵画教室に行くぐらいなら、その月謝代分を画材やら制作費に回そうよ、というのが私の立場です。

習わなくても、画集という名の教科書が図書館にたくさんあるのだから、それを見て学ぶのも良し、美術館に本物を見に行って、肌で味わうのも良し。とにかく、自力で、自分流にやる方が充実するだろうし、喜びは段違い。むしろ、喜びがないと、やる意味すらないだろう。

(私は絵画教室に通ったことがあるが、正直、あれは面白くなかった。むしろ、苦痛でした。あれのどこが楽しいのか? 誰とも喋らず絵を描くなんて、受刑者になったような気分でした。おかげで、友達は一人もできなかった。私が親なら辞めさせてました。皮肉にも、唯一の収穫は、大人の鈍い感性を肌で知れたことでした。)

それはそれとして、画集ってどうやって作るのか?安く作れる方法ないか?と、最近考え始めてる。

業者に頼むのではく、手作りでできる方法を考えたい。