私の父親論

父親ではない私が言うのはお門違いだが、あえて言いたい。

父親というのは、母親とは違い、母子一体感という身体的繋がりを、ヘソの緒を通した肉体的繋がりを経由していないので、それだけ愛着の面においては不利である。

それに、父親は仕事のせいで、子供との時間は切断されるだろうから、この点においても断然母親が有利な状況となる。(家族のために働くことで子供との時間は切断され、そのせいで子供に背かれるのかと思うと胸が痛むな。)

となると、父親が子供と絡む時間は、(職業にもよるだろうが)平日の朝、夕方から夜にかけて、休日の2日間と時間がない。

父親はこの限られた時間に勝負をかけるしかなく、朝はギリギリまで寝て、夕時は晩酌してyoutube、休日は馬券握りしめながら競馬中継見てる場合ではないのである。(気持ちは痛いほど分かりますよ。私は競馬やりませんが。)

では、母親のように子供と心身一体感を経由できなかった父親としては、限られた時間の中でどのように振る舞えば良いか?

結論、「同じ行為を通して、擬似的な一体感」を作り上げるしかない。

どういうことか?

要するに、例えば、「釣り」や「工作」や「スポーツ」などの行為を一緒に行い、「行為を通した父子一体感」を意図的に演出するしかないのです。

これしかない。

ただ、子供が成長するにつれて、習い事を始めるとなると、この時間は必然的に縮まってきます。

例えば、土日にサッカー教室などに通うものならば、もはや、壊滅的です。子供はサッカー教室を友達とエンジョイするだろうが、お父ちゃんとの時間は完全に切断されるのである。お父ちゃんとの時間はさようならバイバイ。もはや、子供はお父ちゃんよりもサッカーなのである。お父ちゃんに残された道は、カメラマンとしてサッカーの映像を納める記録係でしかない。

言い過ぎてしまった。

なるべく、父親というのは、先程言った「行為を通した父子一体感」を作り上げないと、残酷ですが、子供からすると愛着が湧かなくなります。

生活費を稼ぐのも大事ですが、それだけで子供は父親に愛着が湧かないものです。(戦後すぐならまだしも。)
また、自営業のような、父親の働く姿を見せられる環境であればまた別ですが、会社勤めですと、働いている様子を子供に見せられませんから、父親の努力する姿勢というのを子供は感じ取れないものです。(こればかりは仕様がない気がしますが。)

ただ、時間のない中で、子供との時間をより多く共有できるのならば、たとえこの先に、子供の反抗期という、一方的な、関係性の切断が、一時的に起ころうとも、途絶えた関係性は、時間を通して必ず修復する方向に向かうと思います。修復された関係性は今以上に、より強固に、深いものになることでしょう。その時に「親しみ」というものが生まれるのではないでしょうか?そのためにも、(子が小さな時においての)愛着です。娘・息子が子供の時に、父親が愛着というものさえ押さえていれば、良い関係性は実現できるはずです。

私の場合、父子一体感という経験を通せませんでしたから、なおさら言いたい。父子一体感を成功させていた友達親子を子供の時に第三者目線で見れたことと、「父ありき」と「グラン・トリノ」、ジョン・フォードの映画などを通して、父性のあり方、父親の役割を見れたことが私をこの考えに行き着かせました。

父子というのは、とくに、父と息子の関係というのは最も難しいかもしれませんが、お父さんの立ち回り方次第で良い方向に転ぶはずです。

せっかく親子になったからには、良い関係性を築いてほしいものです。実現できれば、これ以上の成功はないのですから。