親や家庭に足りない要素を補う存在

私論だが、子供は、親や家庭に足りない要素を補う存在だと思う。

子供は、夫婦やその他家族を含めた家庭といった、先に存在している集団のもとに生まれてくる。

これは、本能が為すのか、感覚が為すのかよく分からんが、その集団の欠落してる部分を子供が補い、家庭という集団を、より統合されたイメージに近づけようとするのだろう。

例えば、親が警察官の子が暴走族になったり、親が教師の子が非行少年になったりするパターンがあるらしいが、これはユングだと親の影(=生きられなかった反面)が子供に投影されると解釈するかもしれないが、私の場合、警察官の正義や教師の善良に対して"バランスを取るため"に、悪の要素を子供が引っ張ってくるのだと考える。そうすることで、家庭における善悪の要素を均衡させ、より統合されたイメージに近づけるのである。

話は逸れるが、学校の先生や警察官、牧師などの聖職者なんかが犯罪を犯したりすることがあるが、あれは犯罪を犯す当人が元々はそういう人間だったとも言えるだろうが、それよりも、模範的で倫理的な存在のような職業につくと、そのイメージとは裏腹の、個人の影の部分が必然と視覚化されやすく、それを(意識的か無意識かは知らんが)強く抑圧してしまうために起こるのではないか?

その抑圧された影の部分が限界に達した時、犯罪行為として、それが表面化されてしまうからではないか?と思ってしまう。

これは、職業選択における一つの弊害なのかもしれない。やはり、模範的で倫理的な職業に就くと、どうしても自分の抱える影の部分と深く向き合うざるをえない運命になってしまうのかもしれないな。

上記の話は、子供が親や家庭に足りない要素を持ってくる話とは関係なく映るが、模範的で倫理的な職業に就いた人が犯罪を犯してしまう話も、「模範的で倫理的な職業集団」における"足りない要素"として、"倫理を犯す存在"というものが出現してしまうのではないか?と思えてしまう。これは、構造上、産み出されてしまうのではないか?

この足りない要素という問題は、学校の不良少年にしても、アメリカのヒッピーカルチャーにしても、景気が良い時代に出現した新興宗教なんかにしても当てはまりそうである。

また、たまに聞く、"時代が生んだ"や"社会が生んだ"という言葉も、その時代や社会に"足りない要素"として、その存在は作り出されたのではないか?と思えてしまう。

そう考えると、今のような、平和で、規制が激しく、ポリティカルコレクトネスやコンプライアンスが叫ばれ、倫理感が強く求められる時代に、不可解で猟奇的な犯罪や、トランプ前大統領が出現したことなども、もしかすると、この社会に"足りない要素"として、反作用として、影として、産み出されたものなのかもしれないな。

時代における影、反作用としての影というのはことのほか恐ろしく、もしかすると、人間存在というのは、社会や現実というものをうまく均衡させるように最初から出来ているのではないか?と思えてならない。

良い奴もいれば悪い奴もいて、資本主義社会もあれば共産主義社会もあってと、二律背反というか二項対立というか、そればかりじゃないけど、何か1つのものに完全に傾くことはこれからも無いだろうし、仮に世界が1つの方向に向かおうとしても、必ず、反作用として違う要素が、影の存在が出てくるだろう。

要するに、世の中は、おかしなことにならないように、一辺倒にならないように、うまくバランスを保つために最初から出来ているのだろうが、"足りない要素"とはその役割の一部として、あらゆるとこに必ず存在しているものだと私なんかは信じている節がありますけど、これはもしかすると、ただの私の絵空事に過ぎないかもしれません。

そんな絵空事を考える私なんかが、"足りない要素"な存在な気がしてならないわけですが…。