―ふと浮かんだ妄言―
―誰にでも言えることをいってもしょうがないのである―
例えば、「食うために働く」という言葉。
こんなことは誰にでも言える言葉である。
この言葉は、彼の思考や行動から導き出した結論というよりも、集団が導き出した答えのようなものを、ただなぞっているにすぎない。発言者は、集団的な考えを「私の考えです」と代理形成して悦に浸っているだけである。
では、その方にぜひ聞いてみたい。
「あなた個人の考えは?」と。
集団的な考えを模範して言うことは、簡単である。第一、責任を取らなくて良いからである。
例えば、
「世の中、そうなっているから」というお決まりの呪文を誰かが唱えたとして、
仮に世の中の方が間違っていた場合には、
「世の中が"間違っていた"から、私も"間違えてしまった"のだ」
と、世の中のせいにするのである。
ここには責任の所在がまるでない。
そして、これは今に始まったことではない。
例を挙げるなら、昔の人が口にしていた"お天道様"という言葉にせよ、今も口にする"世間体"という言葉にせよ、皆の大好物であろう"空気"という言葉にせよ、所詮、実態のない、視覚化できない"抽象的なもの"を、絶対化し、それに服従して安心しきる態度は、日本人お得意の"芸風"かもしれんが、そんなものよりも、やはり、"個人的な考え"が大事だと私は言いたい。
とは言っても、今日明日で、自分の考えとやらをこしらえるのはむずかしいかもしれん。ただ、たとえ時間がかかるにせよ、試行錯誤し、格闘してでも、自分の考えやらポリシーを自力で作り上げる方が、自分が"ハッキリ"するし、スジのある人間になれるはずである。
やはり、そういう人間の方が、(誤解はされるだろうが)、"世間の代弁者"様よりも、大いに信頼できる気がするわけである。
結局、世間の代弁者様は、一個人として意見を言う態度よりも、世間という背後を嵩に、その安全地帯からものを言う態度を選択してしまった臆病者、個性を放棄した哀れな人間にすぎない。
言い過ぎた。
どうせ生きるなら、自分の考えとやらをこしらえて、ぶつかっていくべきだと思う。
さあ、私にはできるだろうか?