フロイトから学ぶ人間理解

―我々人間のリビドーは、その対象に事欠けば欠くだけますます強烈に残されているものにしがみつき…(以下省略)―S.フロイト「無常ということ」

リビドーの説明
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%BC-149263


このフロイトの考えには、共感しかない。本当にそうである。

例え話になるが、読書が嫌いな人間でも、拘置所の独房に閉じ込められれば、たぶん読書をするはずである。向かう対象がそれしかないからである。

人付き合いの苦手な人間は、リビドーの対象が芸術に向かうかもしれない。向かう対象がそれしかないからである。

世俗が嫌いな人間は、リビドーの対象が宗教に向かうかもしれない。向かう対象がそれしかないからである。

赤ちゃんは、リビドーの対象が母親に向かうために、母親にしがみつき、お母さんと離されたら泣き叫ぶのかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的だからである。

認知症の老人は、リビドーの対象が残された周りの人間に向かうために、是が非でも周りの人間にしがみつくのかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的になるからである。

鳩に餌をやるおかしな人間は、リビドーの対象が鳩にしか向かわないかもしれない。リビドーの対象が限定的かつ局所的かつ倒錯的だからである。

ナルシストは、リビドーの対象が他者ではなく、自己に向かう人間である。

多目的トイレ芸人のあの彼も、大麻で捕まったヨーゼフ・ボイス被れの社会彫刻家兼役者のあの彼も、絵本作家に転身した芸人のあの彼も、リビドーの対象が自己に向かいすぎるぐらい向かっていることは、我々の目にも明らかだ。(だいぶ、大袈裟に言いましたが)

リビドーの対象の限定化かつ局所化。

私なんかは、人付き合いが苦手なために、芸術だの映画だの精神分析学などという対象が向かい、しがみつくのかもしれない。(いや、実際そうであるわけだが…)

ただ、このリビドーの対象とやらが、極端に限定されるのは危険な気がする…いや、危険だろう。

依存症というのはある意味そういうことではないかと、私なんかは思うのである。

リビドーの対象が完全にアルコールになる人間がアル中になり、リビドーの対象が完全にギャンブルになる人間がギャンブル中毒になるのではないか?

こういうリビドーが限定化かつ局所的になる人間というのは、何かにハマったり、洗脳されてしまう気がする。

その対象がアルコールなのかギャンブルなのかホストの彼なのか宗教なのか芸術なのかの違いはあるが、根っこのリビドーの対象が限定的かつ局所的になるということだけは一緒である。

ただ、違いは有害か無害かになるわけだが、芸術も宗教も、家族の誰かがハマりしすぎると、本人は救われるのかもしれないが、家族や周りの人間には有害になるかもしれないのだから、無害とは言えないのである。

例えば、ゴーギャンは、株の仕事を廃業して芸術に向かったから、家庭は困窮したし、マルクスは著述業に向かいすぎて、生活が困窮し、子供が何人も死んだ。ゴーギャンは世界的な芸術家だし、マルクスは世界的な思想家であるわけだが、周りを犠牲にしまくったという不幸な事実が、彼らの偉大な仕事の背後に隠れているのである。

なんだか、長くなりそうだからこの辺にしますが、この話の続きは一応あるで、また書くかもしれない。

その続きの話を忘れそうなので、ここにキーワードを書きますが、ホリエモンと進藤龍也牧師が言っていた話がヒントになりそうです。