タイプ診断

16タイプ診断とやらをやりました。結構当たっていて面白い。私は3つの16タイプ診断サイトで診断しても、INFPだったのでINFP確定である。内向感情型な人間らしいです。

https://www.16personalities.com/ja

INFPの特徴である4つの心理機能は以下の通り。

優勢:内向的感情
補助:外向的直感
代替:内向的感覚
劣勢:外向的思考

外向的思考が苦手みたいです。内向的感情が土台みたいです。

こう、自分の特徴を客観的に見れるのは大変参考になるかもな。

家族はつらいよ

最近、小○圭が話題だが、私の経験上、相手の親兄弟は見ておいた方が良い。いくら相手が優良物件でも、家族自体が“事故物件”のパターンがあるからである。好きになれば関係ないは嘘である(笑)

考えてみてほしい。住んだ家が事故物件だったら引っ越したくなるのが人間である…要するに、離婚したくなるだろう。事実婚ならまた別かもしれんが。

ここからは、私の話になるが、私の父方の家系がまず事故物件である。私から見れば、祖父母がまず事故物件であり、祖父の家族もまた事故物件である。つまり、事故物件の孫が私であり、事故物件のサラブレッドが私である(笑)というより、不器用な欠陥人間であるが…。

なぜに、事故物件かというと、祖父は生前、酒に溺れてしまい、相当やらかしたからである。人の家に酒をもらいに行き、酒がもらえないと文句言うたちの悪いアル中であり、かつ、ギャンブラーである。祖母は成金の俗物、兼、毒親であり、現在は数千万金を溶かしたあげく、認知症である。この家は呪われているのか?(笑)

この籠池夫妻も真っ青な"バカップル"のせいで、家庭が崩壊し、不幸になったのである。なお、祖母は祖父が死んでから、"祖父の親と同居"しているにも関わらず、男を作り、家を追放され、二つ隣の町の現在の我が家のあるところに移り住んだのである。江戸時代じゃ、こんな女は死刑だろうな(笑)

(ちなみに、祖母の新しい男、いわゆる内縁の夫が、私にとっては祖父みたいなものだったために、こちらへの愛着が大きい。継祖父と私が仲が良かったことが、私に与えた影響は大きく、血縁関係なんかより、相性を重視する態度を取るようになってしまった。極論を言うなら、血縁関係があっても、相性が良くなければ話もせず、赤の他人であろうと、相性が良ければ大歓迎であるみたいな感じである。旧友よりも、相性の良い新しい友達を重視するみたいな。まあ、なんであろうと、彼には感謝しているし、眠っているお墓が分かれば花を持って訪ねたいぐらいなのである。)

祖父の家族も凄まじく、祖父の妹は親と"絶縁"し、祖父と祖父の弟は犬猿の仲であり、曾祖父はどうやらインテリの堅物らしく(明治生まれだからしゃーない気がするが)、子供らと衝突するなど、これまた事故物件ファミリーである。この曾祖父の家庭も、ご多分に漏れず、空中分解した。

「なんだ?家庭とはぶち壊すためにあるのか?」と言いたいぐらいの家庭崩壊の連続が、いわゆる、父方の家系である。

そのためか、私には"家庭"という言葉にあまり良い響きを感じないのである。家庭とは、いざこざの始まりぐらいな印象が強い。悲観的すぎるか。

だから、結婚というものは、私にとっては不安なものに写ってしまうのである。病気だな(笑)

それはそれとして、この話の結論を言おう。

―小○よ、お前の家系は事故物件だ。まず、それを認識しろ。原罪意識を持て。事故物件ごときが、聖域またぐなよ。ナルシストなお前さんは、名声や地位が欲しいから諦めきれんのだろう。人から特別に見られたい。そのためなら、綺麗事でもなんでも言う。手に取るようにわかるぜ―

まあ、事故物件が故郷の私なら、相手が高級物件な良いとこのお嬢さんなら、罪悪感、原罪意識を多少なりとも感じるはずである。相手を騙すのだから詐欺師である。これがナルシストとなると話は別で、自分を良く見せるためなら大いに利用するはずである。たぶん彼は、テレビやらメディアに取り上げられることに常に快感を感じているはずである。

ナルシスな男は人を幸せにできない、私にはそう思えるのです。

最近、気づいたこと

今、フロイトやらマルクスといった歴史的大家の書物を、その中でも"稚拙な頭"の私でも分かりそうな内容、かつ、短めの論文(A4の紙3~5ページぐらい)をコピーし、赤線やら青線入れて読み込んでいるが、こいつがなかなか良い。

ところで、ふと思った。

3~5ページの印刷だと、モノクロ印刷で30~50円である。(ちなみに、ミニストップで印刷すると、1枚5円だから半値である。)

図書館の書物を印刷しているので、書物代はかからず、30~50円で大家の書物の一部の論文コピーを手に入れることができ、赤線やら青線やら引いて自己学習できるのである。

ところで、この30~50円で手に入る歴史的大家の論文コピーは、現在のどの作家のどの単行本(1600円ぐらい)の内容にも"圧倒的に"勝るのではないか?(まったく失礼な話だが。)

このことに気づいた私は、今、歴史的大家の古典を印刷しては、赤線青線を入れ、ファイリングしている生活を送っているのである。

私が思うに、そのファイリングしたものも、自分の態度が反映された一つの作品、自分の手でコラージュした作品になるのではないか?そういう作品ができるのも一つの充実した楽しみになるのではないか?という気がするわけである。

図書館には、歴史的大家の全集がいろいろあるのだから、これからも、短くて理解できそうな内容の論文ならば、コピーしては赤線青線を入れ、ファイリングすることに努めたい。

印象に残ったもの

ここ3年ぐらいで印象に残ったものを思い返してみると、

ゴダールの「東風」
・ダリのドキュメンタリー
フロイト精神分析関連
マティスの「王の悲しみ」
荘子の寓話

あたりか。今の気分かもしれんが(笑)

以下は解説です。

ゴダールの東風(映画)は、マルクス=レーニン主義のウンタラカンタラに関してはまったく理解できなかったのですが、画面から伝わる映画作家としての格闘の痕跡やら、映像表現の可能性をひたすら追及するゴダールの切実な姿勢に惹かれ、私は感動したのでした。

・ダリのドキュメンタリーで、初めて動くダリ、喋るダリを観たのですが、ブッ飛んでて最高だった。ダリの神経症者で繊細な感じには、私としてはシンパシーをかなり感じる。とくに、奥さんが亡くなってからショックでまったく絵が描けなくなり、家に閉じ籠って外にも出れなくなってしまうあたりは、もう…この人、人間的に最高だなと思いましたね。

あと、自宅で火災があって、やけどで入院し、退院時に記者に囲まれ、そこで言い放った、「天才は死なない!」という言葉には、正直、シビレました。

そして、少しだけ、戦友であろうマン・レイが写っていたのですが、かっこよかった。あんなじいさんに俺もなりたい!と思いましたね。

・次に、フロイト精神分析関連。これは今、学習中ですが、フロイト精神分析入門は私の聖典になりそうだと言っても過言ではないぐらいの本になりそうです。おそらく、これ読んで理解できれば、不登校もうつの方も、完治とまでは言わないまでも、得るものはかなり大きいはずです。

マティスの王の悲しみ。これはマティスの切り絵の作品なのですが、図書館にレプリカがあって、たまたま見ました。この絵を見て、「絵って、画面だな」と思い、生きている絵、画面に生命を感じる作品というものに初めて出会った気がしました。ほんと、生きている絵ってあるんですね。

・ラスト、荘子。彼は珍しく、思想を寓話スタイルで教えるタイプの人で、そんな人に、私は初めて出会いました。その意外性に、読む側のことを配慮している彼の精神性に惹かれました。柔軟性があるなあ。とくに、私は、彼の説く「無用の用」の概念には強く惹き付けられました。こういうこと言える人になりたいもんです。

以上。

終わり。

―ふと浮かんだ妄言―

―誰にでも言えることをいってもしょうがないのである―

例えば、「食うために働く」という言葉。

こんなことは誰にでも言える言葉である。
この言葉は、彼の思考や行動から導き出した結論というよりも、集団が導き出した答えのようなものを、ただなぞっているにすぎない。発言者は、集団的な考えを「私の考えです」と代理形成して悦に浸っているだけである。

では、その方にぜひ聞いてみたい。

「あなた個人の考えは?」と。

集団的な考えを模範して言うことは、簡単である。第一、責任を取らなくて良いからである。

例えば、

「世の中、そうなっているから」というお決まりの呪文を誰かが唱えたとして、

仮に世の中の方が間違っていた場合には、

「世の中が"間違っていた"から、私も"間違えてしまった"のだ」

と、世の中のせいにするのである。

ここには責任の所在がまるでない。

そして、これは今に始まったことではない。

例を挙げるなら、昔の人が口にしていた"お天道様"という言葉にせよ、今も口にする"世間体"という言葉にせよ、皆の大好物であろう"空気"という言葉にせよ、所詮、実態のない、視覚化できない"抽象的なもの"を、絶対化し、それに服従して安心しきる態度は、日本人お得意の"芸風"かもしれんが、そんなものよりも、やはり、"個人的な考え"が大事だと私は言いたい。

とは言っても、今日明日で、自分の考えとやらをこしらえるのはむずかしいかもしれん。ただ、たとえ時間がかかるにせよ、試行錯誤し、格闘してでも、自分の考えやらポリシーを自力で作り上げる方が、自分が"ハッキリ"するし、スジのある人間になれるはずである。

やはり、そういう人間の方が、(誤解はされるだろうが)、"世間の代弁者"様よりも、大いに信頼できる気がするわけである。

結局、世間の代弁者様は、一個人として意見を言う態度よりも、世間という背後を嵩に、その安全地帯からものを言う態度を選択してしまった臆病者、個性を放棄した哀れな人間にすぎない。

言い過ぎた。

どうせ生きるなら、自分の考えとやらをこしらえて、ぶつかっていくべきだと思う。

さあ、私にはできるだろうか?

言葉から遠く離れて

人間は、言葉によって、あーでもないこーでもないと思考する。悩むのにも、言葉が必要だ。

言葉。
こいつから一時的に離れれば、それなりに解放感を味わえるのではないか?では、その方法は?

方法として挙げられるのは、絵画やダンスなど色々ある。
これらは、言葉を必要としない、感覚的な運動である。感性を武器に、感覚の向かう方向へと、手や体を動かす。

絵画にしろ、ダンスにしろ、何にせよ、言葉を要しない、思考から脱却する行為は、この言葉だらけの世界において、一時的に離脱する手段である。

そう考えてみると、絵画やダンスは、瞑想やヨガのような精神統一的な行為と大いに重なる。

言葉から遠く離れてみる。

スマホ時代の世の中において、言葉から遠く離れてみる試みは、身体に喜びを与える機会なのかもしれない。

言葉に目を通さず、言葉から離れてみよう。

親や家庭に足りない要素を補う存在

私論だが、子供は、親や家庭に足りない要素を補う存在だと思う。

子供は、夫婦やその他家族を含めた家庭といった、先に存在している集団のもとに生まれてくる。

これは、本能が為すのか、感覚が為すのかよく分からんが、その集団の欠落してる部分を子供が補い、家庭という集団を、より統合されたイメージに近づけようとするのだろう。

例えば、親が警察官の子が暴走族になったり、親が教師の子が非行少年になったりするパターンがあるらしいが、これはユングだと親の影(=生きられなかった反面)が子供に投影されると解釈するかもしれないが、私の場合、警察官の正義や教師の善良に対して"バランスを取るため"に、悪の要素を子供が引っ張ってくるのだと考える。そうすることで、家庭における善悪の要素を均衡させ、より統合されたイメージに近づけるのである。

話は逸れるが、学校の先生や警察官、牧師などの聖職者なんかが犯罪を犯したりすることがあるが、あれは犯罪を犯す当人が元々はそういう人間だったとも言えるだろうが、それよりも、模範的で倫理的な存在のような職業につくと、そのイメージとは裏腹の、個人の影の部分が必然と視覚化されやすく、それを(意識的か無意識かは知らんが)強く抑圧してしまうために起こるのではないか?

その抑圧された影の部分が限界に達した時、犯罪行為として、それが表面化されてしまうからではないか?と思ってしまう。

これは、職業選択における一つの弊害なのかもしれない。やはり、模範的で倫理的な職業に就くと、どうしても自分の抱える影の部分と深く向き合うざるをえない運命になってしまうのかもしれないな。

上記の話は、子供が親や家庭に足りない要素を持ってくる話とは関係なく映るが、模範的で倫理的な職業に就いた人が犯罪を犯してしまう話も、「模範的で倫理的な職業集団」における"足りない要素"として、"倫理を犯す存在"というものが出現してしまうのではないか?と思えてしまう。これは、構造上、産み出されてしまうのではないか?

この足りない要素という問題は、学校の不良少年にしても、アメリカのヒッピーカルチャーにしても、景気が良い時代に出現した新興宗教なんかにしても当てはまりそうである。

また、たまに聞く、"時代が生んだ"や"社会が生んだ"という言葉も、その時代や社会に"足りない要素"として、その存在は作り出されたのではないか?と思えてしまう。

そう考えると、今のような、平和で、規制が激しく、ポリティカルコレクトネスやコンプライアンスが叫ばれ、倫理感が強く求められる時代に、不可解で猟奇的な犯罪や、トランプ前大統領が出現したことなども、もしかすると、この社会に"足りない要素"として、反作用として、影として、産み出されたものなのかもしれないな。

時代における影、反作用としての影というのはことのほか恐ろしく、もしかすると、人間存在というのは、社会や現実というものをうまく均衡させるように最初から出来ているのではないか?と思えてならない。

良い奴もいれば悪い奴もいて、資本主義社会もあれば共産主義社会もあってと、二律背反というか二項対立というか、そればかりじゃないけど、何か1つのものに完全に傾くことはこれからも無いだろうし、仮に世界が1つの方向に向かおうとしても、必ず、反作用として違う要素が、影の存在が出てくるだろう。

要するに、世の中は、おかしなことにならないように、一辺倒にならないように、うまくバランスを保つために最初から出来ているのだろうが、"足りない要素"とはその役割の一部として、あらゆるとこに必ず存在しているものだと私なんかは信じている節がありますけど、これはもしかすると、ただの私の絵空事に過ぎないかもしれません。

そんな絵空事を考える私なんかが、"足りない要素"な存在な気がしてならないわけですが…。