対象について考えてみる①

「対象」

対象というと、何を思い浮かべるだろうか?

対象年齢、恋愛対象…。

上記の対象は、人を対象としている。対象年齢何歳以上のお子様、男が恋愛対象、女が恋愛対象…。

ある固有名詞を対象とする意味での「対象」。

それは、人物でもありえるし、犬でも猫でも、等身大フィギュアでも、コンクリートブロックでもありうるのである。

対象となるものは、生物から物質までと様々である。

人間は、対象なしには生きれず、対象のために努力できる生き物であるはずだ。これは人間以外の動物にも言えるかもしれない。

ここで例を出そう。

ある会社にAさん、Bさんという男性がいる。

Aさんは所帯持ちであり、妻と子供がおり、友達も多く、会社でも人気者である。

一方、Bさんは、独り暮らしであり、趣味という趣味もなく、友達もおらず、会社では仕事をこなすものの存在感は薄く、会社と家の行き来のような暮らしをしている。

では、「会社を辞めやすい方はどちらか?」
こう聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか?

私なら、なんとなく、Bさんと答えてしまいそうだ。

ただ、Bさんみたいなタイプは、意外と我慢強かったりするため、辞めない可能性もあるし、逆に、Aさんは家族のことを考えて転職し、新天地で暮らすかもしれない。

では、ここで、先程の述べた「対象」を導入して、この問題について考えてみたい。

Aさんには、妻と子供という「対象」がおり、その「対象」を養うために労働をする。また、友達という「対象」が多く存在し、会社では人気者の「対象」である。よって、Aさんは、「様々な対象」を支え、「様々な対象」に支えられている状態である。

一方、Bさんの場合、対象という面ではどうだろうか?

Bさんは独り暮らしで、友達もいなく、会社では影が薄く、会社と家の行き来のような暮らしというのは、先程言った通り。

よって、絶えずいるのは「自分」という「対象」だけであり、Bさんの人生はセルフサービスとしての人生とも言えなくもない。

いや、もしかしたら、会社の帰り道にいる野良猫や鳩という対象に餌をあげてるかもしれない。

(余談だが、私が思うに、野良猫や鳩に謎に餌をやる変わった大人は、対象に完全に飢えており、対象がいない孤独に耐えられず、彼らの追い詰められた対象を欲する欲望は、必然と、野良猫や鳩という対象に向かわざるえないのである。あれは、動物に対する愛情行為というよりも、心の空白を満たす自己満足行為に過ぎない。)

ただ、野良猫や鳩というのは、対象としては弱いだろう。なぜなら、本人が飼っているわけではないのだから。ゆえに、本人には責任の所在も、養育の義務もないので、餌をあげるのもあげないのも自由であるし、嫌になったらいつだって放棄できる。(ここに、人間のご都合主義を私は感じるのだが。)

以上のような話から、我々は生きていく上で、身近にちゃんとした「対象」があると、できれば複数あると、人生に意義を見出だしやすい。

それは、人によっては息子であるだろうし、犬であるだろうし、孫でもあるだろう。

こういった具体的な「対象」がいないと、どうも人生が漠然としてしまう。

夢を持つのもいいが、具体的な対象を持つことこそ、生きる上では必要なのかもしれない。

私的世界観と現実感覚①

人間には、私的世界観と現実感覚が備わっている。

私的世界観とは何か?それは、自分の持つ世界観、価値判断、趣味嗜好などの個人の主観を指す。

一方、現実感覚とは何か?それは、現実とうまく向き合う力、現実的な対応能力を指す。客観的認識能力と言ってよいだろう。

この2つの能力が良い塩梅に織り混ざっているのが、人間にとってはベストなのかもしれない。

ところが、これが極端に崩れてしまってる人がいる。

たとえば、精神障害認知症など心や脳に疾患がある人の場合、私的世界観が誇大化し、現実感覚が欠如しているようなイメージを抱く。

誇大妄想、独語などの精神障害者特有の私的世界観は、正常な人間にとっては異様に写る。これは現実感覚と解離している表現内容であればあるほど、正常な人間には絶対認識できないだろう。

一方、認知症者の場合、脳が萎縮することによって現実感覚が欠落する。このために客観的認識ができなくなり、日にちや時間というのが分からなくなる。というよりも、日にちや時間という概念で動かなくなるのである。

現実感覚が欠落した認知症者は、私的世界観の中で生きるようになる。どういうことか?例えば、朝食を食べたのに「食べてない」という理解不能な私的な価値判断を下すのである。食べた証拠がしっかりあったとしても、彼らは客観的認識を受け付けないので、客観的情報は無視され、私的価値判断で分別をつけるのである。

(それが彼らにとっての正解なのである。彼らには、「彼らにとっての正解」こそが至上であり、現実的には明らかに不正解であっても、彼らは「彼らにとっての正解」の方に固執するのである。これは周りを振り回したいのではなく、客観的認識ができない彼らにとって、私的世界観にしがみつくしか選択の余地がないのである。)

以上のような、私的世界観が誇大化し、現実感覚が麻痺した人間というのは、正常な人間にとっては不可解な人物に写るため、なるべく敬遠したいと思うのが人間の情だろう。

次に、現実感覚が誇大化し、私的世界観が追いやられている人の場合。このタイプには、組織に対して自己犠牲的な人間、ブラック企業の社員や過労死する労働者など、過酷な労働環境に従事する者や、強豪校の部活動において見られるだろう。

現実感覚が誇大化し、麻痺すると、現実に対して自己犠牲的な態度を取るようになる。ギャンブル中毒がギャンブルのことで頭が一杯になるように、ブラック企業の労働者たちは会社のことで頭が一杯なのかもしれない。

会社で働き、コミットすることが至上であるという思考回路になると、会社の至上=私情という「作られた私情」となり、本当の私情は無視される。無視された本当の私情は無論、消えるわけでもなく、抑圧されるのである。抑圧された私情は、時に症状として浮かび上がり、ヒステリー、顔面痙攣、神経症、鬱、最悪は自殺という形で現れるようになる。ふいに電車に飛び込んじゃう会社員はその犠牲者なのかもしれない。

現実感覚の誇大化、自己犠牲的に組織に献身する精神は、日本のみならず、儒教精神蔓延る東アジアで見られる特有の現象なのかもしれない。

例えば、韓国は、日本よりも儒教的な雰囲気が強く、また、財閥の権力が絶大な社会であるために、受験戦争などの競争原理が激しく、社会の構造としては日本よりずっと縦社会なのかもしれない。この縦の構造に対する反逆、あるいは、それを告発するかのごとく、韓国映画にはやたらと階級闘争的な、弱者による強者に対する反逆のような映画が多いと感じる。左派である文在寅大統領の誕生も、このような超縦社会あるいは映画パラサイトに見る格差社会が背景となっているは確かだろう。

また、世界の中でも飛び抜けて自殺率が高い点は、超縦社会という抑圧的な社会構造が大きな要因としてあるかもしれず、性暴力による事件の多さも、男尊女卑からくるであろう、「男女を縦の関係で見る古い認識」という歪んだ縦の構図の観念が左右しているのかもしれないと思えてしまう。儒教精神を背景とした縦の構図は、規律と秩序という一体感を産み出すものの、その反面、個人の私情は無視され、個人の感情や私的世界観は抑圧される運命になる。

一方、隣国日本においては、空気という特有の現象が見られる。空気は個人個人を結びつける透明な接着剤であり、透明な存在なために、実態はない。誰が所有しているわけでもないので、責任者もいない。空気とは可視化できない無責任な存在であり、この「無責任な存在」というのが空気の怖いところなのである。

日本人はこの実態のない空気に流されやすく、盲目的に支配され、それがこの国の一体感を生んでいる節がある。

会社の超勤労的な空気に飲み込まれ過労死する労働者、いじめの空気に加担する学生、軍国主義という空気が国民を飲み込み、暴走した結果、敗戦した大日本帝国

このように、個人個人の現実感覚が悪い空気に親和してしまうと、以上のようなおかしなことが起こる。よく、いじめに加担した人たちが「その場の空気に流されて…」的な無責任な言動を取るのも、このためである。あたかも、「私は空気の被害者であり、悪いのは空気です。」とでも言うがごとく…。

先程述べたように、空気は目には見えない匿名の、無責任な存在であるために、空気には責任もくそもなく、責任者にもならない存在である。ならないのであるがゆえに、みんな、空気のせいにし、責任を曖昧にするポーズをとるのである。

このように、現実感覚が備わっていても、「空気」という曖昧な対象に感覚を合わせてしまうと、個人個人の私的世界観は抑圧されてしまう傾向にある。

現実感覚と私的世界観のバランス。

このさじ加減が生きる上で大事になってくる。

俳優H.M氏についての私なりの考察

彼の死については考えさせられるものだった。

「清潔感のある、もの分かりの良い温厚な青年」

世間からすれば、彼はこんな感じのイメージだったろうか?

私はそのような認識を抱くわけだが、それよりも、このイメージの背後にある抑圧されたモノに私は注目する。

彼は、あまり本音を吐けないタイプだったのではないか?自分の感情を抑圧しがちの男ではなかったのか?私はそんな気がしてならない。

なんだか、根拠がなく言っているようだが、かくいう私もこの手のタイプであるために肌感覚でわかる。

報道によれば、どうやら彼は深酒しがちのようなことを言っていたが、酒は抑圧しがちの人間にとっての、感情を吐露するための手っ取り早い道具となる。抑えがちの自分を解放するには、酒が一番楽である。(これのせいで、私も何度かハメを外したわけだが…。)

また、父親が二人いたりと、家庭環境が安定してなかったみたいだが、人間の心の形成においては、安定した家庭環境が必要なのかもしれないな。(「安定した家庭環境が、安定した心を形成する」というと、いかにもマルクス唯物史観論的なアプローチすぎて単純すぎるのかもしれないが…)

そして、彼は俳優という仕事をしていたわけだが、俳優というと、どうしてもイメージというのが付きまとい、それに呪縛された可能性もある。また、いろんな役を演じるがゆえに精神が堪えたかもしれない。(私は俳優じゃないので分からないが、自分とはまったく違う人間を演じるなんて考えただけでも疲れる。)

まあ、ここであーだこーだ言っても、彼の死因を直接解明はできないわけだが、ただ、以上のような原因等が複雑に絡み合って、彼を死に追い詰めたのかもしれないと私なりに推測する。(コロナ自粛の影響も多少はあるかもな。)

そして、これはあくまで私の仮説なのだが、彼は、意識的に死に向かったのではなく、無意識かぼんやりと死に向かわせたのではないかと感じる。(ふいに電車に飛び込んじゃう人みたいに)

以上、勝手な見方をしてしまったが、彼の死はあまりにも惜しい。

はじめに

アウトプットが大事だろう、ということで文章を書く。

私は、元来、読書というインプットに傾きがちな人間なので、それに比例するような形で、文章を書くということをしたい。

とはいえ、文章はノートにはたびたび書いていた。だが、いかんせん、見せる対象がいないために、刀で風を切っているみたいな感じがしないでもなく、まったく意味が感じられなかった。

「ならば、ブログに…」ということで、これからはこちらに書きたいと思う。