映画について―アメリカ映画編―

前の投稿で、映画について少し触れたので、今回は映画について話をしたいと思う。

ゼイリブアメリカ映画なので、個人的に印象に残ったアメリカ映画について挙げてきたい。

先にリストを挙げると、

シザーハンズ
グラントリノ
クリムゾンタイド
マイ・ボディーガード
コラテラル
騎兵隊
僕らの未来へ逆回転
ノーカントリー
ビッグ・リボウスキ
ブルージャスミン
ウディアレンのエディプスコンプレックス
要塞警察
ティアーズ・オブ・ザ・サン
ポセイドン・アドベンチャー
マチェーテ
ミッドナイトクロス
ゴーストドッグ
ならず者部隊
キング・オブ・コメディ
合衆国最後の日
特攻大作戦
ジム・キャリーのMr.ダマー
ダラス・バイヤーズ・クラブ
パーフェクト・ワールド
ペイルライダー
ムーンライト
失われた週末…

やばい。たぶん、50作品ぐらいは挙がるはず。そして、TSUTAYAとゲオ行かないと全部は挙げられないだろう(笑)

とりあえず、全部ではないが、こちらで作品をピックアップしてまとめてみると、

感動系名作
・グラントリノ
ポセイドン・アドベンチャー

笑える映画
・僕らの未来へ逆回転
ジム・キャリーのMr.ダマー

技術がすごい映画
ミッドナイトクロス

お母さん方や女性に見せたい自己啓発的な映画
ブルージャスミン
・ウディアレンのエディプスコンプレックス

若い男性に見せたい映画
コラテラル
・クリムゾンタイド
・騎兵隊

話が通じない怖い人が出てくる映画
ノーカントリー
・キング・オブ・コメディ

バカバカしい映画
ビッグ・リボウスキ
マチェーテ

戦争物
ティアーズ・オブ・ザ・サン
・ならず者部隊
特攻大作戦

個人的に主役の役者が光ってる映画
・マイ・ボディーガード
パーフェクト・ワールド
・キング・オブ・コメディ

個人的にベストワンな映画
ビッグ・リボウスキ

私とバカみたいに重なる映画
シザーハンズ

これくらいにしよう…。
いつかリストを作らないとな。

もう一年くらい映画見なくなってますから、最近の映画は分かりませんが、ノマドランドは良さそうです。確か、ヴェネチアで金獅子取ったみたいですから、期待して良い映画だと思います。たぶん。

では、また。

表面的な情報に惑わされるな

例えば、太っている人や痩せている人を見て、「太っているから大食いだろう」「痩せているから少食なんだろう」という極めて単純な発想、表面的な物の判断、表層だけで判断処理する思考回路の人間は、私からすると考えていない人である。こういう人は物事の本質を見誤る。

表面的で、因果関係に結びつける見方は、いろんな場面で見られる。

例えば、頭が良いから、良い学校を出て、医者やら弁護士やら官僚を…なんていう単純な判断。頭が良いから、その頭脳を知的エリートのような職業へと結びつけようとする、因果的なその発想。

別に、学校の勉強が出来ようと、パティシエを目指しても構わないし、パン屋さんでも、お笑い芸人でも構わないじゃないか?つまらない因果関係に縛られるよりは、本人の意思決定で人生を切り開いた方がずっとイキイキするはずである。

なんで、急にこんなことを言うかというと、子供の行動を見て、表面的に捉える大人がいるからである。

例えば、子供が絵を描いた→賞を取った→画塾に通わせよう。この単純さ。賞を取ったことよりも、子供の絵を見て、何がどのように描かれているか?色彩はどうなっているか?とか、もっと言えば、画面の向こう側にある作者の"人間"を見なければならないのである。要するに、大人側は、表面的な判断よりも"深い解釈"が出来なければならない。

絵をろくすぽ見もしないで、"賞を取った"という表面的な情報にとらわれる。こういう判断が、下手すると、子供にとっては悲劇の始まりになりかねないのである。たまたま、賞を取ってしまった可能性もあるわけで…。

例えば、仮に宇宙のような絵が描かれてるとして、私なら、この子は、①絵が好きなのか?②宇宙が好きなのか?③現実よりファンタジーや空想の世界が好きなのか?④好き嫌いでやっているのではなく、あくまで、自分の世界観を表現する手段としての"絵"であり、絵という方法を通して、自分の内的世界観を体現しているのか?

の計4通りの解釈をし、いったいどれが本質なのかを吟味するために、美術館行ったり、画集を見せたり、博物館やらプラネタリウムを見に行ったり、映画を見せたりと、色々な経験させ、間違っても、バカの一つ覚えみたいに"画塾に通わせる一択"だけという、短絡的判断処理だけはしないだろう。

この"画塾に通わせる"という判断は、早期教育主義者の発想である。ただ、残念ながら、早期教育主義者たちは、絵は、芸術は、早期なんてものは関係なく、何歳からでも始められるものであり、熟練なぞは関係なく、岡本太郎氏の言うように、「芸術は決意の問題」であるとは考えもしないだろう。芸術は、まず精神が土台であり、技術は二の次なのである。

早期教育主義者は、本気で画塾に通わせたいのなら、芸術論の二、三冊は読んでから判断しろと言いたい。たぶん、一冊も読んでないで、判断するのだから無知は末恐ろしいものである。

このように、表面的に物を捉えていく発想は、表面的な情報が蔓延る現代社会においては危険な態度であり、メディアの切り取りによる印象操作などに引っ掛かる可能性が大いにある。

こんなこと書いていたら、ジョン・カーペンターの「ゼイリブ」という映画を思い出したが、あれを見れば、印象操作の怖さが良くわかるはずである。私の好きな映画の一つである。

表面的な情報に惑わされるな。

ゼイリブ
https://youtu.be/uv_8XYjED5o

タイプ診断

16タイプ診断とやらをやりました。結構当たっていて面白い。私は3つの16タイプ診断サイトで診断しても、INFPだったのでINFP確定である。内向感情型な人間らしいです。

https://www.16personalities.com/ja

INFPの特徴である4つの心理機能は以下の通り。

優勢:内向的感情
補助:外向的直感
代替:内向的感覚
劣勢:外向的思考

外向的思考が苦手みたいです。内向的感情が土台みたいです。

こう、自分の特徴を客観的に見れるのは大変参考になるかもな。

家族はつらいよ

最近、小○圭が話題だが、私の経験上、相手の親兄弟は見ておいた方が良い。いくら相手が優良物件でも、家族自体が“事故物件”のパターンがあるからである。好きになれば関係ないは嘘である(笑)

考えてみてほしい。住んだ家が事故物件だったら引っ越したくなるのが人間である…要するに、離婚したくなるだろう。事実婚ならまた別かもしれんが。

ここからは、私の話になるが、私の父方の家系がまず事故物件である。私から見れば、祖父母がまず事故物件であり、祖父の家族もまた事故物件である。つまり、事故物件の孫が私であり、事故物件のサラブレッドが私である(笑)というより、不器用な欠陥人間であるが…。

なぜに、事故物件かというと、祖父は生前、酒に溺れてしまい、相当やらかしたからである。人の家に酒をもらいに行き、酒がもらえないと文句言うたちの悪いアル中であり、かつ、ギャンブラーである。祖母は成金の俗物、兼、毒親であり、現在は数千万金を溶かしたあげく、認知症である。この家は呪われているのか?(笑)

この籠池夫妻も真っ青な"バカップル"のせいで、家庭が崩壊し、不幸になったのである。なお、祖母は祖父が死んでから、"祖父の親と同居"しているにも関わらず、男を作り、家を追放され、二つ隣の町の現在の我が家のあるところに移り住んだのである。江戸時代じゃ、こんな女は死刑だろうな(笑)

(ちなみに、祖母の新しい男、いわゆる内縁の夫が、私にとっては祖父みたいなものだったために、こちらへの愛着が大きい。継祖父と私が仲が良かったことが、私に与えた影響は大きく、血縁関係なんかより、相性を重視する態度を取るようになってしまった。極論を言うなら、血縁関係があっても、相性が良くなければ話もせず、赤の他人であろうと、相性が良ければ大歓迎であるみたいな感じである。旧友よりも、相性の良い新しい友達を重視するみたいな。まあ、なんであろうと、彼には感謝しているし、眠っているお墓が分かれば花を持って訪ねたいぐらいなのである。)

祖父の家族も凄まじく、祖父の妹は親と"絶縁"し、祖父と祖父の弟は犬猿の仲であり、曾祖父はどうやらインテリの堅物らしく(明治生まれだからしゃーない気がするが)、子供らと衝突するなど、これまた事故物件ファミリーである。この曾祖父の家庭も、ご多分に漏れず、空中分解した。

「なんだ?家庭とはぶち壊すためにあるのか?」と言いたいぐらいの家庭崩壊の連続が、いわゆる、父方の家系である。

そのためか、私には"家庭"という言葉にあまり良い響きを感じないのである。家庭とは、いざこざの始まりぐらいな印象が強い。悲観的すぎるか。

だから、結婚というものは、私にとっては不安なものに写ってしまうのである。病気だな(笑)

それはそれとして、この話の結論を言おう。

―小○よ、お前の家系は事故物件だ。まず、それを認識しろ。原罪意識を持て。事故物件ごときが、聖域またぐなよ。ナルシストなお前さんは、名声や地位が欲しいから諦めきれんのだろう。人から特別に見られたい。そのためなら、綺麗事でもなんでも言う。手に取るようにわかるぜ―

まあ、事故物件が故郷の私なら、相手が高級物件な良いとこのお嬢さんなら、罪悪感、原罪意識を多少なりとも感じるはずである。相手を騙すのだから詐欺師である。これがナルシストとなると話は別で、自分を良く見せるためなら大いに利用するはずである。たぶん彼は、テレビやらメディアに取り上げられることに常に快感を感じているはずである。

ナルシスな男は人を幸せにできない、私にはそう思えるのです。

最近、気づいたこと

今、フロイトやらマルクスといった歴史的大家の書物を、その中でも"稚拙な頭"の私でも分かりそうな内容、かつ、短めの論文(A4の紙3~5ページぐらい)をコピーし、赤線やら青線入れて読み込んでいるが、こいつがなかなか良い。

ところで、ふと思った。

3~5ページの印刷だと、モノクロ印刷で30~50円である。(ちなみに、ミニストップで印刷すると、1枚5円だから半値である。)

図書館の書物を印刷しているので、書物代はかからず、30~50円で大家の書物の一部の論文コピーを手に入れることができ、赤線やら青線やら引いて自己学習できるのである。

ところで、この30~50円で手に入る歴史的大家の論文コピーは、現在のどの作家のどの単行本(1600円ぐらい)の内容にも"圧倒的に"勝るのではないか?(まったく失礼な話だが。)

このことに気づいた私は、今、歴史的大家の古典を印刷しては、赤線青線を入れ、ファイリングしている生活を送っているのである。

私が思うに、そのファイリングしたものも、自分の態度が反映された一つの作品、自分の手でコラージュした作品になるのではないか?そういう作品ができるのも一つの充実した楽しみになるのではないか?という気がするわけである。

図書館には、歴史的大家の全集がいろいろあるのだから、これからも、短くて理解できそうな内容の論文ならば、コピーしては赤線青線を入れ、ファイリングすることに努めたい。

印象に残ったもの

ここ3年ぐらいで印象に残ったものを思い返してみると、

ゴダールの「東風」
・ダリのドキュメンタリー
フロイト精神分析関連
マティスの「王の悲しみ」
荘子の寓話

あたりか。今の気分かもしれんが(笑)

以下は解説です。

ゴダールの東風(映画)は、マルクス=レーニン主義のウンタラカンタラに関してはまったく理解できなかったのですが、画面から伝わる映画作家としての格闘の痕跡やら、映像表現の可能性をひたすら追及するゴダールの切実な姿勢に惹かれ、私は感動したのでした。

・ダリのドキュメンタリーで、初めて動くダリ、喋るダリを観たのですが、ブッ飛んでて最高だった。ダリの神経症者で繊細な感じには、私としてはシンパシーをかなり感じる。とくに、奥さんが亡くなってからショックでまったく絵が描けなくなり、家に閉じ籠って外にも出れなくなってしまうあたりは、もう…この人、人間的に最高だなと思いましたね。

あと、自宅で火災があって、やけどで入院し、退院時に記者に囲まれ、そこで言い放った、「天才は死なない!」という言葉には、正直、シビレました。

そして、少しだけ、戦友であろうマン・レイが写っていたのですが、かっこよかった。あんなじいさんに俺もなりたい!と思いましたね。

・次に、フロイト精神分析関連。これは今、学習中ですが、フロイト精神分析入門は私の聖典になりそうだと言っても過言ではないぐらいの本になりそうです。おそらく、これ読んで理解できれば、不登校もうつの方も、完治とまでは言わないまでも、得るものはかなり大きいはずです。

マティスの王の悲しみ。これはマティスの切り絵の作品なのですが、図書館にレプリカがあって、たまたま見ました。この絵を見て、「絵って、画面だな」と思い、生きている絵、画面に生命を感じる作品というものに初めて出会った気がしました。ほんと、生きている絵ってあるんですね。

・ラスト、荘子。彼は珍しく、思想を寓話スタイルで教えるタイプの人で、そんな人に、私は初めて出会いました。その意外性に、読む側のことを配慮している彼の精神性に惹かれました。柔軟性があるなあ。とくに、私は、彼の説く「無用の用」の概念には強く惹き付けられました。こういうこと言える人になりたいもんです。

以上。

終わり。

―ふと浮かんだ妄言―

―誰にでも言えることをいってもしょうがないのである―

例えば、「食うために働く」という言葉。

こんなことは誰にでも言える言葉である。
この言葉は、彼の思考や行動から導き出した結論というよりも、集団が導き出した答えのようなものを、ただなぞっているにすぎない。発言者は、集団的な考えを「私の考えです」と代理形成して悦に浸っているだけである。

では、その方にぜひ聞いてみたい。

「あなた個人の考えは?」と。

集団的な考えを模範して言うことは、簡単である。第一、責任を取らなくて良いからである。

例えば、

「世の中、そうなっているから」というお決まりの呪文を誰かが唱えたとして、

仮に世の中の方が間違っていた場合には、

「世の中が"間違っていた"から、私も"間違えてしまった"のだ」

と、世の中のせいにするのである。

ここには責任の所在がまるでない。

そして、これは今に始まったことではない。

例を挙げるなら、昔の人が口にしていた"お天道様"という言葉にせよ、今も口にする"世間体"という言葉にせよ、皆の大好物であろう"空気"という言葉にせよ、所詮、実態のない、視覚化できない"抽象的なもの"を、絶対化し、それに服従して安心しきる態度は、日本人お得意の"芸風"かもしれんが、そんなものよりも、やはり、"個人的な考え"が大事だと私は言いたい。

とは言っても、今日明日で、自分の考えとやらをこしらえるのはむずかしいかもしれん。ただ、たとえ時間がかかるにせよ、試行錯誤し、格闘してでも、自分の考えやらポリシーを自力で作り上げる方が、自分が"ハッキリ"するし、スジのある人間になれるはずである。

やはり、そういう人間の方が、(誤解はされるだろうが)、"世間の代弁者"様よりも、大いに信頼できる気がするわけである。

結局、世間の代弁者様は、一個人として意見を言う態度よりも、世間という背後を嵩に、その安全地帯からものを言う態度を選択してしまった臆病者、個性を放棄した哀れな人間にすぎない。

言い過ぎた。

どうせ生きるなら、自分の考えとやらをこしらえて、ぶつかっていくべきだと思う。

さあ、私にはできるだろうか?