言葉から遠く離れて

人間は、言葉によって、あーでもないこーでもないと思考する。悩むのにも、言葉が必要だ。

言葉。
こいつから一時的に離れれば、それなりに解放感を味わえるのではないか?では、その方法は?

方法として挙げられるのは、絵画やダンスなど色々ある。
これらは、言葉を必要としない、感覚的な運動である。感性を武器に、感覚の向かう方向へと、手や体を動かす。

絵画にしろ、ダンスにしろ、何にせよ、言葉を要しない、思考から脱却する行為は、この言葉だらけの世界において、一時的に離脱する手段である。

そう考えてみると、絵画やダンスは、瞑想やヨガのような精神統一的な行為と大いに重なる。

言葉から遠く離れてみる。

スマホ時代の世の中において、言葉から遠く離れてみる試みは、身体に喜びを与える機会なのかもしれない。

言葉に目を通さず、言葉から離れてみよう。

親や家庭に足りない要素を補う存在

私論だが、子供は、親や家庭に足りない要素を補う存在だと思う。

子供は、夫婦やその他家族を含めた家庭といった、先に存在している集団のもとに生まれてくる。

これは、本能が為すのか、感覚が為すのかよく分からんが、その集団の欠落してる部分を子供が補い、家庭という集団を、より統合されたイメージに近づけようとするのだろう。

例えば、親が警察官の子が暴走族になったり、親が教師の子が非行少年になったりするパターンがあるらしいが、これはユングだと親の影(=生きられなかった反面)が子供に投影されると解釈するかもしれないが、私の場合、警察官の正義や教師の善良に対して"バランスを取るため"に、悪の要素を子供が引っ張ってくるのだと考える。そうすることで、家庭における善悪の要素を均衡させ、より統合されたイメージに近づけるのである。

話は逸れるが、学校の先生や警察官、牧師などの聖職者なんかが犯罪を犯したりすることがあるが、あれは犯罪を犯す当人が元々はそういう人間だったとも言えるだろうが、それよりも、模範的で倫理的な存在のような職業につくと、そのイメージとは裏腹の、個人の影の部分が必然と視覚化されやすく、それを(意識的か無意識かは知らんが)強く抑圧してしまうために起こるのではないか?

その抑圧された影の部分が限界に達した時、犯罪行為として、それが表面化されてしまうからではないか?と思ってしまう。

これは、職業選択における一つの弊害なのかもしれない。やはり、模範的で倫理的な職業に就くと、どうしても自分の抱える影の部分と深く向き合うざるをえない運命になってしまうのかもしれないな。

上記の話は、子供が親や家庭に足りない要素を持ってくる話とは関係なく映るが、模範的で倫理的な職業に就いた人が犯罪を犯してしまう話も、「模範的で倫理的な職業集団」における"足りない要素"として、"倫理を犯す存在"というものが出現してしまうのではないか?と思えてしまう。これは、構造上、産み出されてしまうのではないか?

この足りない要素という問題は、学校の不良少年にしても、アメリカのヒッピーカルチャーにしても、景気が良い時代に出現した新興宗教なんかにしても当てはまりそうである。

また、たまに聞く、"時代が生んだ"や"社会が生んだ"という言葉も、その時代や社会に"足りない要素"として、その存在は作り出されたのではないか?と思えてしまう。

そう考えると、今のような、平和で、規制が激しく、ポリティカルコレクトネスやコンプライアンスが叫ばれ、倫理感が強く求められる時代に、不可解で猟奇的な犯罪や、トランプ前大統領が出現したことなども、もしかすると、この社会に"足りない要素"として、反作用として、影として、産み出されたものなのかもしれないな。

時代における影、反作用としての影というのはことのほか恐ろしく、もしかすると、人間存在というのは、社会や現実というものをうまく均衡させるように最初から出来ているのではないか?と思えてならない。

良い奴もいれば悪い奴もいて、資本主義社会もあれば共産主義社会もあってと、二律背反というか二項対立というか、そればかりじゃないけど、何か1つのものに完全に傾くことはこれからも無いだろうし、仮に世界が1つの方向に向かおうとしても、必ず、反作用として違う要素が、影の存在が出てくるだろう。

要するに、世の中は、おかしなことにならないように、一辺倒にならないように、うまくバランスを保つために最初から出来ているのだろうが、"足りない要素"とはその役割の一部として、あらゆるとこに必ず存在しているものだと私なんかは信じている節がありますけど、これはもしかすると、ただの私の絵空事に過ぎないかもしれません。

そんな絵空事を考える私なんかが、"足りない要素"な存在な気がしてならないわけですが…。

子供と反動形成

子供がいて、その子供に兄弟や姉妹が出来たとして、上の子が下の子に愛情を注ぐ場合、上の子は愛情がある子なんだなーと私は単純に思っていたのだが、どうやら、精神分析学的にはニュアンスが違うらしい。

反動形成という言葉がある。
これは本心と行動が逆に出る現象のことである。

例えば、女の人にあることだが、嫌いな人に敬語使ったり、やたらと丁寧になるオバチャンがいるが、これがまさに反動形成である。感情と行為が逆に出るのだ。

で、子供の方に話を戻すと、上の子が下の子に愛情を注ぐのは、愛情があるからというよりかは、嫉妬の裏返しとして愛情らしい。お母さんに受容されるためには、下の子に嫉妬してしまうとまずいので、嫉妬とは逆の、愛情という感情を注ぐ方向に舵を切る。すると、お母さんは僕や私を受け入れてくれる。子は、お母さんに受容されるためには、自分の想いを加工する。その愛情が深ければ深いほど、お母さんに受容されたい気持ちはかなり強いだろう。ウガった見方かもしれんが。

これは、子供の生存戦略と言っても良いかもしれない。お母さんこそが世界のすべてみたいな子供にとっては、お母さんに受け入れられることこそが第一であるから、それだけ必死なのである。

こういう考えが知識としてあるかないかで、子供の見方も随分変わってくるのではないかと思う。少なくとも、より俯瞰的に、より冷静に見れるようになるだろう。

ヤマンバギャルはどこか土着的

時期的にいうと、90年代後半でしょうか?ヤマンバギャルという女性たちがいましたね。あの子達は今考えても稀有な存在だったと思います。彼女たちのような民族的なヘアメイクといいましょうか、ファッションは、携帯電話やMDプレーヤーなどのテクノロジーの進化といった世の情勢に対して、対置されたカタチで出現したと思います。利便性や機能主義的に傾く世の中に反し、厚底ブーツや、やたらと尖った爪、やたらとつける携帯ストラップといった装飾的な装いは、何か人間らしさによる抵抗のようなものを感じました。

私には、そんな彼女たちが大変土着的に映り、渋谷センター街や原宿の竹下通りといった最先端な場所で、あの装いをして出現したというのは、もはや、時代に対する反作用でも何物でもなく、まるで、テクノロジーの進歩と調和に否を突きつけた太陽の塔のような存在にも見えました。(パラパラなんかも、どこか呪術的ですしね。)

もう彼女たちはだいぶ少数派になってしまい、今は韓流メイクやファッションが流行ってるのかどうかは私にはよく分かりませんが、彼女たちの時代に抵抗する精神というのは、どこか別のかたちで継承されていれば良いな、なんて思います。

みんなさん、今頃、立派な主婦やお母さんになってるのでしょうね、きっと。

反抗期と精神形成

岸田秀先生の三島由紀夫論を読んで、我ながら考えてしまった。

三島由紀夫には反抗期がなかったらしい。そして、反抗期がないのは、精神障害になる1つの条件だそうである。彼のあの最後のクーデターというのは、精神障害における発狂そのものらしいです。(そういえば、私が追いかけてる作家も、反抗期がなく、躁鬱病になってるから、これは本当なんだろうな。)

そんな私も反抗期がありませんでした。どうやら、自我の形成においては、反抗期が必要らしいとのことです。これで、私の自我の弱いことの辻褄が合いました。

思うに、反抗期がないと、精神の形成に欠落が生じる気がします。ゆえに、健全な精神というのは、もう手に入りません。そして、残された手は精神以外のもので補うしかなく、その1つは知性であると思います。知的操作。まさに、三島由紀夫がそのような人だった気がします。(その結果、彼は自殺してしまいましたが…。)

でも、知的操作、知性で穴埋めしていったところで、誰からも好かれない気がしますね。そして、そういう人間はどこか人工的で温もりもなく、乾いた人間になるはずです。

あと、別の方法として、欠落した精神をカモフラージュするべく、死ぬまで演技し通すという方法がありますが…。

それもいつか破綻しそうな気がしますが…。

失礼な話

失礼な話ですが、欲深い女性は長生きだと思う。(誤解がないように言いますが、長生きしている女性すべてが欲深いのではない。それはありえない。ただ、欲深い女性という人種は必然と長生きになりがちだということです。)

逆に、欲深い男というのは、長生きできないような気がします。たぶん、欲深さに体の方が持たないのでしょう。

なぜ、こんなことを言うかというと、私の自称祖母が欲深い女性だからです。

たぶんですが、欲深さが長生きに繋がるのだと思います。端から見ていて思うのが、彼女は情念だけで生きている感じがするのです。フロイトでいうところのエスですか。彼女はそれが人一倍強いのです。そして、自我が弱いからエスをうまくコントロールできない。だから、自制が効かない。酒に溺れちゃう人なんかもそうですね。

私見ですが、煩悩を捨てない限りは、欲深いお婆さんはたぶん成仏できないでしょう。欲深い男は、先程言ったように、煩悩を捨てる前に体の方が滅び、欲深い女性の方は、煩悩を捨てなければ捨てないほど、嫌でも生き延びてしまうのかもしれない。("女は灰になるまで"という言葉は、言い得て妙だと思います。)

もしかすると、長く生きるかそうでないかは、健康よりも欲望の強弱に左右されるかもしれない。

強い人とは?

私が思うに、自己分析できてる人、自分で自分のことを分かっている人はそれだけで強い。

これは逆説的かもしれないが、自分で自分のことを分かっている人は、他人のことも分かる気がします。(自分に似合う格好が分かってる人ほど、他人もうまくスタイリングできてしまうみたいに。)

逆に、他人を分かっているという人ほど、自分のことを分かってなかったりする。(子供のことを分かっているという親ほど…なんでもないです。)

自分で自分が分からない人、掴めてない人ほど、人生おかしなことになる気がしてならないんだよな…。

正しく自分を見つめるというのは、強さの他にありますまい。

孫子の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」じゃないけれど、己を知らないと、人生もうまく立ち回れないのではないでしょうか?

そんな気がしますね。

ただ、そんなこと言っている私こそ、自分で自分を分かってない気がしますが…

…うん?待てよ。

これはもしかすると、「自分のことを分かってない自分」を認識はできているのだから、私にもまだ救いがあるのかな?(笑)

ソクラテス無知の知みたいに…。